日々ぐるぐると悩んだり思考がまとまらないなら書けばいいじゃない

何かをやめるということ

今年は会社を辞めるぞー!と先月までは意気込んでいたのだけれど、今月にはいって、仕事が忙しかったり、仕事の取引先や部下との関係がなんだか良好で良い感じだったり、キャリアカウンセラーとの面談で、転職先考えるの面倒くさいなぁという気持ちになってしまったのもあり、転職しなくていいかな…という気持ちになってきてしまっている。

 

でも、休みの日が終わらない仕事で1日潰れたり、休みの日なのに仕事のことで落ち着かなかったり、上司に怒られたり、やりたくない仕事、苦手な仕事をしたり、どうしようもないミスをしたり、向いてないなぁと自分、普通じゃないのかなぁと落ち込んだりして、また辞めたいなぁという気持ちになるのは目に見えてるし、どう考えても、いまの直の上司のサポート的な立ち位置だからやっていけてるけど、直の上司が退職(立場を引退)したら、この仕事はこなせないし(嫌いだし苦手な仕事だから)、どう考えても行き詰まるんだよな。

 

そして、この、やめたい〜そうでもない〜やめたいの波が死にたい(人生やめたい)の波に似てるなぁと。基本的にいつ死んでもいいんだけど、その中ですごい死にたい時期〜死にたいことを考えてない時期を行ったり来たりしてる感じ。

 

 

死にたいの話になったから死にたいの話をしよう。

 

私自身、小学生の頃には「死にたいなぁ」、誰かに「死ね」っていわれたら、校舎の窓から飛び降りてやろうかなと思ってた記憶があるくらい物心ついてからはうっすらと死にたい人生。

中学生のころに、【息子に自殺されたけどなんで息子が死んだかわからない母親】の講演会を聞かされたときには『息子をネタに講演会するような、自殺に理由を求めるような母親だから自殺したんだろ』と自殺する人に共感を覚えてた。

それでも高校生の頃に病弱だけど精神的に強い友人Mを失望させまいと「死にたい」自分を封じてた。

だけれど大学生の時にできた友人Nから「死にたいと思ったことがない」と聞いたときには、そんな人もいるのかと衝撃だった。割と波乱万丈な人生を送ってそうな子だったので尚更。

 

実際、別に自殺騒ぎを起こしたことも、ましてやリストカットさえしたことはないので(むしろ姉が高校生の頃にリストカットしてるっぽい跡があり、それを病んでるアピールにしか思えず、確実に死ぬ方法で死ねよと思ってた)、これが世に云う“死にたい(希死念慮)”なのか、そこまでのものではないのか未だにわからない。

 

先日、『死なれちゃったあとで』という本を手に取った。そのなかにでてくる死んでしまった友人もずっと死にたい人だったんじゃないかなと勝手に思って、結局死ぬか死なないかはタイミングなんだよなと勝手に結論付けた。

 

だって、過去に飛び降りたり、薬を飲んだけど自殺に失敗した俳優さんをふたり知ってるけど、彼らが今も活躍してるのをみると、どうしてもタイミングだよなぁと思ってしまう。

 

死にたい気持ちが溢れた時に、友人から間接的な「死なないで」というメッセージを何度ももらって本当に感謝してる。彼女たちがいなかったらもうとっくに人生をやめているかもしれない。

 

人の迷惑(汚点)にならないならとっくに死んでしまいたい。